院長紹介 プロフィール

院長:坪田 和之

プロフィール

・1966年生まれ 宮城県気仙沼市出身
・1988年長生学園入学 (あん摩マッサージ指圧師養成校)
・1990年同校卒業・あん摩マッサージ指圧師国家資格取得
・川崎市京浜総合病院 理学療法室(リハビリテーション)勤務
・2004年退社
・2004年宮城県仙台市にて [つぼた健康院]開院、現在に至る。二児の父


自己紹介

初めまして、院長の坪田です。
少し長くなりますが治療の仕事を志すきっかけなどをお話させて頂きたいと思います。

【体が弱かった幼少期】
幼少の頃の私は体が弱く、斜頸(首が傾く)と小児ぜんそくがあり、たびたび小児科のお世話になっていました。
ぜんそくの発作は夜間に起こる事が殆どで、一度発作が始まると横になって眠る事が出来ず、朝まで壁を背中にして座って眠る事もしばしばでした。
子供心にどうして自分はこんなに苦しい思いをしなければならないんだろうと思ったものです。
それから暫くの間は吸入器治療を受けるため呼吸器科に通院しました。
体が丈夫になる様にと父は武道を習わせ、咳き込みが酷いと母は薬を塗布し背中を摩ってくれました。
また、自営業で忙しい両親に代わり叔母がぜんそくに良いといわれる岩手県の須川温泉に連れて行ってくれたりと、家族や親戚の方が色々と手を尽くしてくれました。
その甲斐あって成長と共に症状は和らぎ、小学校高学年の頃にはだいぶ落ち着いて過ごせる様になりました。
この頃の自分自身のつらい経験も治療に関わる仕事に就いたきっかけのひとつになっていると思います。

【長生院(ちょうせいいん)との縁】
そんな折、父に連れられ気仙沼にある「長生院」という治療院に行きました。
私の実家は小さな旅館を営んでいて、宿泊客のほとんどが長生院に泊まりがけで治療に来る患者さん達でした。
実家の旅館を含め5軒程、長生院の患者さんが泊まる旅館がありました。
東北地方は勿論、北海道や関東、関西方面からも沢山の患者さんが来ていました。
長生院はいつも混んでいて、一日の患者さんの数は70人前後だったと思います。
JR鹿折唐桑(ししおりからくわ)駅という駅の近くにあったのですが、あまりにも長生院に通う乗降客が多い為、各駅停車しか止まらなかった駅に快速が止まる様になりました。
父は病弱な私を心配して一度先生に診て貰おうと思ったのでしょう、父に連れられ初めて先生の治療を受けた時は驚きでした。
呼吸が楽になり咳の為張っていた背中もスーッと楽になりました。
背が伸びた様な感覚もあり不思議な気持ちになりました。
細かいところまでは覚えていませんが、何か凄い事をして貰ったと思った事は覚えています。
その後たびたび治療して貰いに行く様になり、いつの間にか咳は全く出なくなりました。
子供心に自分もこんな事が出来る様になったら凄いなぁと思う様になりました。
この長生院との縁が今の道に進む大きなきっかけになっています。

【小さな患者さんたち】
実家の旅館には様々な患者さんが来られました。
難病、奇病、病院から見放され藁をもという想いで来られる方が沢山いました。
その中で小さなお子さんも意外に多い事に気がつきました。
まだ子供なのにこの子は何処が悪いんだろう?と思う様になりました。

ある時、両親に連れられ女の子が来ました。
食べると吐いてしまい、病院で様々な検査をしても何も異常が見つからず、もうやる事はないと言われたそうです。
本当に藁をも掴む想いで連れて来られたのでしょう。
初回の治療が終わり旅館に戻って来ると、その子は二階に上がり寝てしまいました。
夕飯の時間になっても起きてくる事はなく、次の日の朝になっても起きて来ませんでした。
流石に心配になった父が先生に電話をすると「心配する事はない、そのうち起きてくるから放っておきなさい」という返事だったそうです。
するとその日の昼、その子は起きて来て「お腹すいた」と言ってご飯をモリモリ食べ始めたそうです。
昨日から丸一日眠っていた事になります。
その後は吐き戻す事は無く3回程治療を受けて帰りました。
ご両親は大変喜び何度も感謝の言葉を述べて帰って行きました。

またある時は補聴器を付けた男の子が来ました。
「この子は補聴器を外すとほとんど耳が聞こえないんです」とお母さんが話していました。
ここからは一緒に長生院に同行した父に伝え聞いた話です。
先生は補聴器を外して男の子を立たせ、後ろから名前を呼んだそうです。
もちろん聞こえないので何も反応はありません。
その後治療をしてもう一度立たせて名前を呼ぶと、今度はクルッ振り返ったそうです。
そばで見ていたお母さんは涙を流し、先生に何度も頭を下げていたそうです。
「困っている人の手助けをして生活が出来る、こんなにいい仕事はないぞ」 とよく父が私に言っていました。
この頃から父は先生からの依頼もあり少しづつ治療を手伝う様になりました。
何年も先生の元で治療を覚え患者さんを任されるまでになりました。
その後独立し、私の兄と開院しました。
随分前に先生は他界され父も高齢になり現役を引退しましたが、今も気仙沼で「福井長生治療院」という名前で兄が後を継ぎ治療をしています。

田植えや稲刈りの季節には農家の方々がお米や野菜をたくさん車に積んで、サンマやカツオの時期には漁師さん達が食べきれないほどの魚を持って治療に来てくれました。
まだまだ長生院の先生や父には及びませんが、ご来院頂いた患者さんには笑顔でお帰り頂ける様、心掛けて施術をしております。
長文、最後まで読み進めていただきありがとうございました、ご来院お待ちしております。                                                   
[坪田]